読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語

BD発売からそろそろ1年も経つことだし、どんなことを書いても大丈夫だと思う。別に、この時を待っていたわけではないが、私の思った感想を書きたいと思う。

実のところ、この映画を見るつもりはなかった。TVシリーズも見ていたが、そこまで好きなわけでなく、映画の公開日を知っても全く見る気は起きなかった。しかし、何の因果か、その前日寝付けなかった。夜の12時を超えても、未だに寝付けず、朝方になってとうとう嫌気がした。よくわからないテンションは怖いもので、もう映画見る!見てやると、八つ当たり気味な思いで、朝一で見にいってしまった。今から思えば、それが一番の過ちだった。

肝心の映画は、演出がヤバイということを除けば、特に思うところもなく進んでいった。そして、ほむらが魔女化するシーンに入り初めて期待した。円環の理すら生み出した魔法少女である。それはもう、魔女を超えた別の何かになるのではという期待があった。しかし残念ながら、それは起こることなく、キュゥべえの遮断フィールドを破壊し、お迎えのシーンになってしまった。

さすがに、ここまでくれば、もう何もない。同人作品であれば、ここで何かをしでかしそうだけど、まともな脚本であれば、ここで終わるのがきれいな展開かなと思い、内心、落胆していた。しかし、次の瞬間、円環の理を引き裂くという篤い展開に、映画館の中でありながら、思わずガッツポーズした。本当にやってくれたと思う。おかげで、私の中の評価が変わった。TVシリーズもこのためにあったと思うと、この作品の見方が変わってしまった。その上、映画は1度見ればいいものとしか思っていなかった私が、幾度も映画館へと足を運んでしまった。そんな思い入れのある作品である。

 

叛逆で何が変わったか

そもそもTVシリーズを見たときは、悪くない作品ではあったが、好きな部分はイヌカレー演出と梶浦さんの音楽で、いわゆる「マミられた」シーンがストーリーの最高潮であり、10話、11話とよかったが、私としては12話は正直好きではない。理由としては単純である。本をある程度読んでいたりするとわかることだが、願い事が1つでもかなえられるということは、どんなペテンにもかけれるということを意味する。やろうと思えば、誰も犠牲にならず、みんなでハッピーエンドかつ子供が夢見るような魔法少女ものの世界に変えることすらできたはずである。そのため、12話の内容は大体予測できてしまい、驚きではなく少しの落胆があった。個人的に最終話の展開として、よかったと思えるのは以下の順である。

  1. まどかが契約し、ほむらと一緒に過去に戻り、ワルプルギスを打倒するルート。もしくは、まどかの願いによって、インキュベーターという種が魔法少女からしても、善い存在と思えるような存在にすること。アニメの魔法少女に出てくるサポートキャラのように。それによって、キュゥべえの力を借りつつ、ワルプルギスに勝利すると同時に、魔法少女の未来も明るくなるルート。
  2. まどポで既にあるが、ほむらが刺し違えてでもワルプルギスを倒すルート。
  3. みんな復活で、ワルプルギス打倒のハッピーエンド。
  4. 脚本としては一番きれいに思いやすい、反面1番ありがちな展開。まどかが犠牲になることで、ワルプルギスを倒す、もしくは、魔法少女そのものを救うルート。

こんなことを当時に考えてた私が、最終話を楽しめるはずはなく、たかだか概念に成り下がったくらいにしか思えなかった。その上、TVの段階だと好きなキャラは

  1. キュゥべえ
  2. シャルロッテ

であり、好きなキャラに人間はおらず、人間の中で好きなキャラはと聞かれたら、ほむらかなぁ・・・くらいだった。それほどまでに魅力を感じていなかった。

その私が劇場版を見たせいで、好きなキャラは以下のように変貌してしまった。

  1. 偽町の子供たち
  2. べべ(なぎさは除く)
  3. ほむら
  4. ミータくん
  5. キュゥべえ

この有様である。偽町の子供たちはずるいとしても、べべには完全にやられた。シャルロッテよりも、かわいくないはずのデザインにかかわらず、かわいい。映画の冒頭で、シャルロッテが・・・と思っていたが、動いているべべをみて、すっかり好きになってしまっていた。そして、まさか、この作品で、人間で好きなキャラができるとは思っていなかった。しかも、キュゥべえよりも好きになってしまったことに自分でも驚いている。

では、劇場版でほむらの何が変わったかといえば、そうあきらめなかったのである。たとえ仕方なくても、TVシリーズでは、あきらめてしまったのが許せなかった。それがあるからこそ、そこまで好きなキャラにはならなかったのである。しかし、劇場版では、まどかの作った世界のために全てを捧げ、頭蓋も溶け、文字通り骨だけとなった。最後には、唯一の約束であった再会・・・救済をも捨てて、魔女になり殺されることを望んだ。そして、それを乗り越えてまで掴んだ救済のとき・・・ほむら自身が本当に望んだ、まどかと一緒にいられること。それさえも、投げ打ち、あきらめることをやめた。誰よりも女の子らしく、人間らしく描かれた女の子がである。人間とはやはりこうでなければいけない。あきらめを踏破したのである。彼女が望んでいた唯一の彼岸を捨て、苦しみの此岸に留まったのである。これで惚れないわけがない。

ちなみに、ほむらがキュゥべえにまどかのことを話さなければ、こんなことにはならなかったと思うかもしれないが、それはほむらとしてありえない。たとえ、ほむら自身がキュゥべえを嫌っていようとも、ここはまどかが作った世界である。まどかが作った世界で、インキュベーター魔法少女の良好な関係がある以上、信じないわけにはいかない。まどかが作った世界だけが彼女に残された唯一のものだったのだから。

叛逆とは何だったのか

叛逆の物語とは何だったのか。円環の理に叛逆することといわれることが多いが、それは違う。ぶっちーのインタビューからすると、これまでの物語を否定することでもなく、まどかマギカという物語を再び始めるということらしい。つまり、まどかマギカという物語がそもそも叛逆の物語だったのではないだろうか。たしかに、TVシリーズは、まどかが答えにたどり着くまでの物語ではあるが、その背景にあるものは、ほむらの戦いである。ほむらが運命に抗うことこそ、まどかマギカと言ってしまってもいいのではないだろうか。ちなみに、劇中でも叛逆とは何かが、ほむらの口から語られている。「幾度となく残酷な運命に抗おうと戦った」と。TVシリーズは、ほむらのあきらめにより、物語に幕を閉じた。新編では、あきらめることをやめ、再び運命に抗うために走り始めた。それが、叛逆の物語である。

それでは、なぜ円環の理を引き裂くに至ったのか。もちろん、お花畑で、まどかの気持ちを聞けたのが始まりなのは間違いない。だからこそ、救いを放棄してまでも、魔女となり殺されることを望んだし、あんな人生であっても幸せだったと言っている。しかし、それだけでは、引き裂くまでの決意をするのには足りないと思う。基本的に罪悪感の塊のようなほむらが、まどかの気持ちに反してまでするとは到底考えずらい。

それでは、何が後押ししたのか。その1人はさやかではないだろうか。さやかは物語を通して終始、ほむらが望んだことは悪いものじゃないよ、と告げている。たとえ、正しくない手段だとしても、まどかを思うその心は、悪いものじゃないんだよ、と肯定してあげた形になったのが、さやかだと思う。

そして、最後の1押しにまどかが手を差し伸べた。

何があっても、ほむらちゃんは ほむらちゃんだよ。
あたしは絶対に見捨てたりしない。
だから・・・諦めないで・・・!

こんな場所にまで来て、あんな姿に成れ果てた私にも、まどかは手を差し伸べてくれる。まどかを殺した私なんかのために。結局はまどかを救えず、あきらめてしまった私なんかのために。

罪悪感のままに、死のうと考えていたのだろう。しかし、まどかがここまでしてくれるのに、自分があきらめてよいのだろうかと思ったに違いない。たとえ、状況が他の選択肢を許さなかったとしても、まどかの犠牲を許していいわけがない。どんな方法だって構わない。まどかが救えるのなら。そして手元には、膨大な因果を伴った魔女化という方法があるのだ。それで何もしなけりゃ嘘というものだ。

結局のところ、みんなで知らず知らずに、ほむらの背中を押した結果ではないのかなと、私は思うのである。

円環組って何をしてたのか

魔女戦での様子から、活躍のイメージのある円環組だが、果たして円環組は何をしていたのか、私としては結構疑問だったりする。目的はほむらの救済である。しかし、さやかにしても、優しい言葉をかけているように見せて、結局のところ「転校生」とか言って脅かしただけで、ほむらが魔女になるのを待っているようにしか見えない。本来、魔女にする必要がなく、ほむらが真相にたどり着いた上で、結界を壊せばよかったことを考えると、べべを疑い始めた段階で、全部話してもよかったんじゃないかと思う。ほむらの性格からして、ああなることは予想できるわけだし。

ただ、悔いを残さないための時間を与えた演出にはなっている。それでも、さやかの理屈からすると、救済されればまどかと一緒にいられるわけだから、後悔も何も無いんじゃないかなと思ってしまう。演出の都合と言ってしまえば、それまでだが。

ちなみに、さやかはほむらを理解しているようでいて、根本的に理解できていない特徴的なシーンがある。

「外の世界で本当のまどかと会える」

魔女となったほむらに、さやかが言った台詞である。しかし、幾度となく時間を繰り返したほむらにとって見れば、どちらのまどかもまどかでしかない。記憶のあるまどかも、記憶のないまどかも、どちらであっても救うべき対象でしかない。時間を繰り返し、忘れられ、分かり合えなくなったとしても、助けようとしたのだから。

因果の在り処

なぜ、概念になる以前に・・・もちろん、円環の理の一部を奪う前に、どうして円環の理をほむらが引き裂くことができたのか、どうして概念になりえたのか。それは簡単である。因果の直接の持ち主でもない、間接的に因果の糸がからまっただけのまどかですら、概念になれるほどの因果を持っていたのだから。

それなら、魔法少女のほむらが弱いのはおかしいと思うかもしれないが、これは魔法少女後のほむらが溜めた因果である。そのため、魔法少女になる前には存在しないため、魔法少女になるときには使用されなかった。

とはいっても、1人の少女がわずか1ヶ月の期間とはいえ、この宇宙の時間を管理していたことを考えると、実はとんでもないことでもある。魔法少女最弱スペックなほむらを、強力な魔力を持っているとマミですら言っていたことを考えると、魔力自体は強いはずである。もしかすると、魔法で盾くらいしか出せないのも、時間の管理にほとんどの魔力が充てられていたからなのかもしれない。

話を戻すが、ほむらは魔法少女となり、幾度も時間を戻し、あまたの人々の努力を、生きた日々を無に返し、世界の、宇宙の時間の進みを止めた。時間が1ヶ月より先に進むことですら、ほむらの因果と成り果てた。そして、最後にはその因果によって、この宇宙に新たな概念が誕生した。

そして、魔法少女になる時以外で因果が使われる時がもう1つある。魔女化である。

誰かの幸せを祈った分、ほかの誰かを呪わずにはいられない

彼女最強魔法少女として最大の敵を倒してしまったんだ。 もちろん後最悪魔女なるしかない

魔法少女として為した偉業の分だけ、強力な魔女となる。つまり、魔法少女の間に溜めた因果が、魔女になる際に使用されるということではないだろうか。

殻の中とはいえ、魔女になった時に理解したのだろう。魔女になる際のその性質を利用して、ほむらは概念を引き裂き、自らも概念と成り果てた。そう考えると、概念になることも、別に突拍子もないことではない。

実は、もう1つの疑問がある。なぜ、円環の理であるまどかが、ほむらの呪いを受けとめられなかったのかだ。まどかの魔女の名前がグレートヒェンであることを考えるとちょっと面白い。グレートヒェンはゲーテファウストの登場人物である。ファウストとの恋愛で肉親を死なせたことで、精神が病み、産んだ赤子を殺して、獄中で死んだ。しかし、最後には、永遠に処女なるものとして、ファウストの魂を救うのである。お世辞にも、ファウストは自分勝手で、ろくでもない人物にしか見えない。それでも、かつてグレートヒェンだったものは、ファウストが懸命に生きた人間であるため、その愛で救う。

しかし、彼女は、かつて彼女だったものは、彼女のことを本当に思い、尽くしてきた人は救わない。彼女は母親を殺し、兄を死に追いやり、自らの赤子を殺したが、その人たちは犠牲で終わる。それを考えると、まどかが魔法少女に、円環の理になるという方法は、本当にまどかを思っている両親も、まどかのためだけに生きてきたほむらも、本当の意味で救うことができないのは当然かもしれない。

とはいっても、単に、ほむらの想い・・・呪いが円環の理では、どうにもならないものになっていただけかもしれないが。しかし、宇宙1つを終わらせる呪いですら消せる円環の理で、受け止めきれないことを考えると、ほむらの想いは宇宙1つより重いことになる。もしかすると、アニメ史上最も重い女かもしれない。

 

最後に、劇場版ではないが、私の思い入れのあるシーンを挙げる。

それは、10話のほむらが契約するシーンである。

イメージカラーが紫色なため、ほむらのソウルジェムの色を紫と思っている人も多そうだが、本来の色はまどかと同じピンクである。契約の時に発するソウルジェムの光はまどかと変わらぬピンク色で、卵型の状態では、まどかのソウルジェムと並べなければ、どちらかわからないような、トーンが少し濃いだけのピンクである。

2人とも、取り柄がないことで、少し病的なまでに、誰の役にも立てないと思い込み、無力感に思い悩む少女だった。魔法少女になる理由も、他の人のため。

 役に立てない私が、誰かの役に立てるなら

 守ってもらったんだから、今度は私が守る

魂のあり方も近い2人が、今や別々の道を歩んでいる。

私としては、もう1度同じ道を歩める日が来ることを祈るばかりである。